F8F “Conquest 1”の作り方

出典:SOLID MODEL NET
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F8F “Conquest 1”の作り方

ソリッドモデルの製作についてできるだけ丁寧に書いていきます。大町氏や福田氏のソリッドモデルの作り方を参考に書いていきますが、私(萩原)の解釈を入れ、わたりやすくするつもりです。製作は、ソリッドモデルの標準的な縮尺である1/50にします。
F8F “Conquest 1”を選んだのは、塗装や風防の製作などが容易だからです。

F8Fについて

 本機はグラマン社最後のレシプロ戦闘機で、そしてあらゆる名機のデータを元に作られた一つの最終形態とも言える機体です。
 その計画は当初プライベートベンチャーとしてスタートしました。1943年7月のことです。そのころのグラマン社と言えば、F6Fヘルキャットと、TBFアベンジャーの量産、そして双発艦上戦闘機XF7F-1(後のF7F TigerCat)の開発で多忙を極めていました。
 そんな最中、創業社長であるリロイ・グラマンは主任設計技師ウィリアム・シュエンドラーに自らの発想に基づくある指示を行いました。その発想はカサブランカ級のような小型空母からも作戦可能な小型で軽快な艦上戦闘機の開発だったのです。
 技術陣が零式艦上戦闘機やFw190などのデータを元に検討を重ね、出来た仕様は以下のようになりました。

Bearcat2.jpg

○サイズ
 F4Fと同等
○全備重量
 3,860Kg
○エンジン
 2速過給器装備のP&W R-2800 ダブルワスプ
○武装
 Cal.50(12.7mm機銃)x4
○燃料搭載量
 170U.S gal(644L)
○馬力荷重
 1.9Kg
○翼面荷重
 160Kg/㎡
○バブルキャノピー採用
○性能全般に於いてF6Fを上回ること
この仕様を元にしたデザインはG-58案としてまとめられ43年秋に海軍航空局に提出されました。
 海軍は同年1月、マグダネル社に初のジェット艦上戦闘機の開発(後のXFD-1)を指示していましたが、ジェット機が果たして空母上での運用が可能か否かも定かではない時期であったこともありG-58案は歓迎をもって迎えられ、43年11月27日、XF8F-1の名でプロトタイプ2機の製作が指示されました。
 XF8F-1の1号機は予定よりほぼ1ヶ月遅れの44年8月31日に初飛行を行いました。2号機の方も予定していたEシリーズエンジンの完成が遅れたため、1号機と同じP&W R-2800-22Wを搭載して同年12月2日に進空しました。当然の事ながら本機の高性能ぶりはテストを開始したと同時に明らかになりましたが、F6Fと比較すれば当然のことでありました。
 まず、胴体はエンジンの直径ぎりぎりまで絞られ、キャブレター/オイルクーラーのインテイクは主翼前縁の付け根に移動しました。主翼はスパンが2m以上も短くなり翼面積もF6Fの31㎡から23㎡へと実に26%も減少しました。なお、翼型はF4F以来グラマンが使い慣れたNACA230系で、付け根が23015(厚比15%)、翼端が23009(厚比9%)となっています。一回り小型化された結果、総重量はF6Fの5,600Kgから4,000Kgへと28%も減少したのにもかかわらず、同系統のR-2800の出力向上型を搭載しているのですから格段に性能が向上するのも当然でした。軽量化は機体の小型化だけにとどまらず、機体全体の構造設計にまで及び、特にグラマン機の特徴とも言うべき90°捻り後方折り畳み機構という複雑な方式をやめて、単純な上方折り畳み機構(外翼部1.7m)としました。このようにしてシェイプアップされたXF8F-1は最大速度が海面上で630Km/h、高度5,280mで680Km/h、海面上昇率1,460m/minと言う高性能を発揮しました。とりわけ上昇率は零戦の960m/minを遙かに凌いでいました。
 欠点としては、短縮された機体に直径3.83mもの大直径4翅プロペラを回すことによる安定性が悪い点で、テスト中にドーサルフィンが追加され、水平尾翼のスパンも30cm拡大されました。
また、方向安定性不良はドーサルフィンを付けた程度では完全な解決になっておらず、特にセンターラインにタンクを装備して高速飛行を行うとその傾向が顕著となりました。NACAの風洞実験により垂直尾翼の高さを増すのが最良の解決法であることが判明したので、F8F-1の1機に30.5cm高くした垂直尾翼を取り付けテストを行い、F8F-2に導入されることとなりました。

“Conquest 1”について

 第二次世界大戦後、アメリカでかつて人気のあったエアレースが復活、参加する飛行機に制限のないアンリミテッド・エアレース(トンプソンカップ)等も復活しましたが、そこに登場した機体達は第二次世界大戦終結により余剰となり、サープラス品として民間に払い下げられたレシプロ戦闘機達でした。主に払い下げられた機体はベルP-39エアラコブラ、P-63キングコブラ、リパブリックP-47サンダーボルト、ロッキードP-38ライトニング、ノースアメリカンP-51ムスタング、グッドイヤーFG-1コルセアなどでした。F8Fは、当時米海軍の主力であり、輸出兵器としての価値が高く、数も多くないことから、当然F8Fは民間に払い下げられる訳がなく、そうなるのはアメリカ海軍、フランス海軍やタイ空軍での運用後、それぞれから軍役を解かれる50年代も後半になってからのことでした。“Conquest 1”は、その時期にあらわれることになったのです。

挑戦への始まり

 アンソン・ジョンソンが1952年にドイツが保持する世界速度記録の更新に失敗した後、しばらく記録更新への試みは途絶えてしまいました。エアレースも行われていない状況が続いていたのですが、1964年、リノでナショナル・エアレースが復活しました。再び第二次世界大戦のレシプロ戦闘機達がスピードを競う舞台がよみがえり、スピードに魅入られた男達が集まってきました。その中の一人がダリル・グリーネマイヤーで、そして彼の駆る機体こそF8F-2(N111L Bu.No.121646/VF-62)だったのです。彼もまた、スピードの向上のためには努力を惜しまないタイプで、1964年の最初のレース時からささやかな改造を施し、レースに臨んでいました。
 しかし、その改造が災いして、勝利をつかむも規定違反となり失格になりました。
 彼は機体とエンジンに大改造を加え、翌65年から69年までリノ・アンリミテッド・エアレースに於いて5回の優勝連続制覇を達成しました。彼の利点は、彼がロッキード社の先端技術集団”スカンクワークス”のテストパイロットで、同僚のエンジニアから助力を得ることが出来たことでした。64年のレース後、彼は後にスカンクワークスを率いるクラレンス・ケリー・ジョンソンの後継者となるベン・リッチと言う高名な技術者に助力を依頼しましたが、彼は自らの代わりにピート・ロウを紹介、ピートもF8Fには不慣れだったため、ブルース・ボーランドを仲間に引き込みました。この二人は以後のアメリカンレーサーの技術向上に寄与することになりました。二人の助力を得たダリルにとっての夢は最早リノでの優勝ではなく、約30年近くにわたって保持されてきたMe109Rの記録を打ち破り、レシプロ最速のタイトルを獲得することだったのです。

世界速度記録への改造

 ピート・ロウとブルース・ボーランドの助力を得たダリル・グリーネマイヤーの世界速度記録挑戦は1966年になってから始まりました。機体は1965年に予定の改造をほぼ終わっていました。改造の主眼となったのは重量軽減、抵抗の減少、牽引力向上を含めた馬力アップでした。

 まず、重量軽減に於いて、185gal入りの操縦席下の胴体自動防漏式燃料パックが取り除かれ、この空間はシーラントで密閉されてインテグラル・タンクとなり、大陸横断レースに向けて燃料搭載量を310galとされました。  油圧系統は主脚引き込み脚用シリンダーを除いて削除し、主脚の引き込みに関しては高圧(1900psi/134Kg/c㎡)窒素で行い、窒素は小型ボトル(直径約12.7cm、長さ約50cm)に収容されました。収容に要する時間は5秒以内で、脚を出すときはロックを外し、機体を振り、その重力を利用して下げ、下げ位置にロックさせます。電気系統も削除され、脚引き込み確認ライトと携帯式無線機の動力には15Vの乾電池が操縦席内に搭載されました。また、補助燃料ポンプは手動式ポンプに変更され、エンジンスタートは外部動力に頼ったのです。 Bearcat-Conquest.jpg

 抵抗軽減には、まず主翼両端を切断、ロッキード社の空力エンジニア、メル・キャシディが設計した翼端を装着、全幅を10.85mから8.68mへと短くしました。主翼前縁胴体近くに空いている潤滑油冷却用クーラーとキャブレターの空気取り入れ口はエンジン・カウリング内へ移動しましたが、潤滑油用クーラーは胴体内の水/アルコール・タンクのボイラー内に浸され、熱で液体を蒸発させますが、これらの液体は発動機のデトネーション防止にも使用されました。  風防はF1レーサーの物を採用、小型化され、フラップは固定されてフラップのヒンジは削除、舷面の布は金属板に交換されました。また、着艦フック収容部は覆われ、機尾は延長されました。 Conquest-1.jpg

 エンジンはP&W R-2800-30Wから-83に換装されましたが、実際は各種型式部品の構成で、減速器部分は減速比.35:1の-44Wで、ダグラスADスカイレーダーの直径4.1mの4翅プロペラを回して高推進力を得ることにしました。しかし、これでは水平姿勢のときにプロペラ先端が地面に接触してしまうので離着陸は機首を高くあげた3点姿勢で行わなければならなくなりました。そして、プロペラスピナーはP-51Hムスタングのスピナーが取り付けられ、カウリング後上のカウルフラップもわずかな隙間を残して閉ざされました。

1969年8月16日の記録達成機

世界速度記録への挑戦、そして・・・

 初挑戦となる1966年は、カリフォルニア州ランカスター近くのフォックスフィールドに3Kmのコースを設定して行われました。このとき機体は更に改造が加えられていました。垂直尾翼の高さが1ft(30cm)縮められ、昇降舵/方向舵の隙間減少手段も改良され、機体全体は隙間を埋められ塗装で磨きあげられました。外から見えない部分ではボイラーの変更、潤滑油クーラーの倍増、エンジンのスーパーチャージャーがDC-6用のCB-17型となり、出力が2,500hpに向上しました。この状態で5月28日に挑戦が行われましたが、ダリルは2回飛行したところで着陸しました。横安定性が悪化し、高速で横滑りが激しくなり、ロールし始め制御不能になったためで、垂直尾翼の高さの減少は失敗だったのです。

 第2回の挑戦は翌々年の1968年、リノ・エアレースの前に行うことになり、エドワーズ空軍基地に記録コースが設定されました。一昨年の状態と比較すると、標準型の垂直尾翼に付け換え、主翼後縁と胴体の付け根にフィレットが設けられ、水とニトロメタン噴射装置が搭載されました。挑戦飛行は8月24日に行われましたが、4回の平均速度は447.5mphと記録更新に至りませんでした。その日、2度の飛行が行われましたが記録不成立やエンジンがかからないなどのトラブルで暮れてしまいました。  翌日は1回目の飛行で498mphを出して期待をさせましたが、ピストンの一つが焼き付いてしまいました。基地に帰って2つのピストンとシリンダーを交換、再挑戦に備えましたが今度はエンジンが短時間のテスト運転でストップし、発動機一式の交換が必要になってしまいました。

 年が明けて1969年8月、リノの1ヶ月前に3度目の挑戦が再びエドワーズ空軍基地で行われました。“コンクエスト1”と名付けられた機体は緩やかな円を描くヒレを付け、根元の面積が大きくなった新製作の垂直尾翼を付けていました。胴体関係では、エンジンの高温の排気が主翼後縁の広範囲に悪影響を及ぼすので排気管を延長して排気の流れを改善し、その上にカバーを付けました。また、この排気熱は胴体構造にも有害であったので排気流に沿って長さ5ft(約1.5m)のステンレス・スティール板が胴体に張り付けられましたが、その後ろの胴体では白い塗装が火脹れになってしまいました。外から見えない部分では、胴体内のインテグラル・タンクは油漏れに悩まされていましたが、アルミ溶接タンクが3個が装着されて問題は解決しました。そして、破損したエンジンはDC-6のCB-17型にほぼ交換された。  8月16日、エドワーズ空軍基地では約300人が砂漠の摂氏37℃の熱気に包まれながら見守っていました。そんな中を垂直尾翼に星条旗を描いた”コンクエスト1”は高度約90mで飛翔しました。  コクピット内部は熱く、脚には火傷を防ぐためにエスキモーが愛用する長靴マクラクを履き、手袋をしてスロットルを握りましたが、それでも暑い。そのため、更に胸にアイスパックをくくりつけ、手も冷やししました。コクピットにはエンジンの排気やボイラーの臭気も入ってきました。酸素マスクは外せません。ダリルはこの難行に耐え抜き、飛行を終えました。  この日の第1回目の飛行は昼前に行われ、油圧に問題が生じていたものの475mphを出して記録更新の条件に合うことが出来ました。しかしダリルはこれに満足せず、再挑戦を行いました。第2回目は午後3時38分に離陸、25分以内に4回の飛行を行いました。最高速度は追い風状態の510mph、最低速度は逆風状態の454mphでしたが、FAIの記録は482.463mph(776.449Km/h)とされ、見事にMe109Rの記録を更新しました。実に30年ぶりの記録更新だったのです。最高速度時のエンジン出力は3,200hp/3,000rpmだったということです。
 記録を更新したダリル・グリーネマイヤーには旧記録保持者であるフリッツ・ウェンデルから祝電が送られ、1970年のSETP(実験機パイロット協会)総会からフライトテストで最も航空界に貢献した人物に贈られるキンチェロー賞をウェンデルの手から受賞、FAIからもポール・ティサンディエ賞を贈られました。

その後、F8F-2”コンクエスト1”は数回のレースに出場後、国立航空宇宙博物館に寄贈、ワシントンで展示された後、シルバーヒルのポール E.ガーバー施設の所蔵となっています。